おなじみ「道頓堀 太郎寄席」9月の会、まず今月の「藍の会」は桂三弥はんの会でおました。前回、8月の会では「くもんもん式学習塾」という、新作噺をかけはりました。
三弥はんは、声がよろしおますな。なかなかにどすの利いた、渋い声でおますねん。
今回の出し物は「竹の水仙」と「寝床」でおました。
「竹の水仙」は、宿屋へ泊まった大酒呑みの客が亭主に催促されて金の工面をするという噺でおます。竹で細工物をこしらえまして、これを店の前に出しておけば何百両で売れるという。そんなアホな、という話でおまして、宿屋の亭主も、使いの侍も「何百両なんてそんなアホな」という展開なんでおますが、結局、何百両で売れますねん。
この大酒呑みの客というのが実は名匠・左甚五郎、という筋書きで、左甚五郎はほかにも「ねずみ」という、これまた宿屋が舞台になる人情噺に登場しておりますが、こちらの「竹の水仙」に描かれるほうが、いかにも豪放磊落でおますな。なんや、ふつうの人間のスケールから外れているところが、また三弥はんの声とよう合うのでおます。
「寝床」は、おなじみ浄瑠璃好きの旦那が、店子を集めてへたくそな素人浄瑠璃を無理やりに聞かせるという噺でおます。設定は「へたくそな素人浄瑠璃」なのやけれど、ほんまにへたくそやと聴いておられませんので、噺をかけるほうの噺家さんはそれなりに魅力のある浄瑠璃を聴かせんとあかんわけでおます。
そこで、また三弥さんの声がよろしおますな。浄瑠璃というのは、やっぱり声が大事なんでっしゃろな。どすの利いた声といえば、来月ご出演の笑福亭生喬師匠もええ声でおますけど、こちらはどちらかというとお侍とかお奉行とか、そういうかっちりした世界が似合うような気がいたしますねん。三弥はんは逆に、ふつうの基準からはずれたところが合うような気がしますねん。
次のご出演も楽しみでおますねん。
さて、「松の会」の方はこけら落としからのお馴染みの、桂文三師匠の会でおました。
お噺は「後家馬子」と「稽古屋」。どちらも噺のサゲ(落ち)はどないでもええような、そこまでの筋と関係ない終わり方で、無理やり終わるような噺なんでおます。
ということは、何を見せるか聞かせるかというたら、噺が進んでゆくうちの描写そのものちゅうことでおますな。
「後家馬子」は、孝行娘を持った長屋の後家さんが主人公でおます。髪結いの娘さんに小遣いをせびる後家はん、若い男ができて、ちょっとした事件が起きたことで義理の弟が意見をしにゆくと。
娘の稼ぎをまきあげる、若い娘にしてみれば自分の父親と違う男が出入りする、そこへまた亡くなった亭主の弟が意見しにゆく。今の時代ではピンとこんようになった機微もあるかもしれまへんが、ともかくちょっと険悪なやりとりになったところで、どっと力が抜けるようなサゲなんでおます。これはもう、「次、どないなるんやろ」と、人情噺みたいなハッピーエンドみたいな結末を期待しはったらあきませんねん。あくまで、人間のリアルなばかばかしさを味わうのがこの噺の魅力やと思いますねん。
たぶん、この「後家馬子」というネタは、若い男にうつつをぬかす後家はんと、まるで正反対な生真面目で親孝行な娘はんをどない描くかというところが肝心やと思いますねん。
女性の描写というたら文三師匠のお得意でおます。孝行娘はいかにも清々しく甲斐甲斐しく、憎々しいはずの後家はんは、そやけど、なんやよう憎めんのですな。ここで後家はんが憎々しいだけやったら、サゲが成り立ちませんねん。しょうもないような、とってつけたようなサゲで、あははと笑わすようなお噺でおました。
大トリの「稽古屋」というのは、上方らしい、鳴り物がたっぷり入るお噺でおます。女にもてたいと思うて、稽古事を習いにゆく男の話でおますのやが、筋らしい筋いうもんがおまへんねん。清元のお稽古に行くまでと、稽古の先でのやりとりがすべてでおますねん。
そやさかい、この噺の華は清元のお稽古の場面でおます。
清元のお師匠はん、三味線のお師匠はんというのは落語にもよう登場します。だいたいがちょっと年増のええ女子はんと決まっております。稽古にゆく連中もお師匠はんが目当てやさかい、お師匠はんの方も人のあしらいにたけておりますねんな。
「稽古屋」の方はお師匠はんが目当てなわけやないさかい、それはそれで難しいのやろと思いますねん。お師匠はんが目当ての噺なら、そのお師匠はんはいかにも魅力的な女子はんとして、噺を聴いているもんに、どんなええ女子はんやろ、と思わせるようでなけりゃあきませんのやろけど、今回はお師匠はんがお目当てやおまへんねん。
ほたら唄が上手いだけでええかというと、そうでもおまへんのやろな。どんなええ女子はんやろ、と思わせてしまってはあかんのやけど、かといって魅力がなければお師匠はんというキャラクターが成り立ちまへん。そのあたりの加減が、文三師匠はまた上手いんでおますな。どこまで考えてやってはるのかはお聞きしたことはおまへんのやけど、きっと、あれこれ考えてやってはるのでおまっしゃろな。
「太郎寄席」は小さい会でおますのやけど、毎回毎回、下座には生のお囃子さんに入ってもろうてますねん。マイクも使わんと生やさかい、糸の音、唄の声、なんともいえん華やかさがあってええもんでおます。東京の落語は鳴り物を使わんのがほとんどなのやそうやし、落語に鳴り物を入れると余計なものを入れるように思われる方も多いようでおますけれども、確かにただ鳴り物が入っているだけというのはあきまへんのやけど、こないしてぴったりはまると、それはええもんでおますねん。
文三師匠のお師匠はんの五代目文枝師匠も、こういう艶のある噺をお得意にしておられましたが、文三師匠もそういうところ、よう受け継いではりますねん。
太郎寄席、藍の会、松の会と毎度毎度中堅若手の噺家さんとお話をしておりますと、みなさんそれぞれに隅々まで考えてやってはりますねん。また、そういう隅々まで考えたところを、冒険でもええからやっていただくのがこの「道頓堀 太郎寄席」やと思うております。
幸い、毎回お運びのお客様は落語のお好きなお客様が多いようで、そういう噺家はんの試みやら意気込みやら、また噺家はんご本人が「失敗した」と思うてはるようなところまで楽しんではるようでおますな。みなさん、エエカゲンな芸には厳しいのやろけど、ちゃんと考えてやってはる試みについては、ええ理解者ぞろいでおますな。
わても、そういうええお客さんにまじって聞かせていただくのは楽しいことでおます。
そろそろ、「道頓堀 太郎寄席」も1年を迎えます。寄席としてはまだまだやさかい、ことさらに一周年ということをやるほどではおまへんが、続けて参りたいと思うておりますねん。
どうぞ、今後ともご贔屓のほど、よろしゅうおたのもうしますねん。